『ネオコンの論理』(ロバート・ケーガン/光文社)

『ネオコンの論理』(ロバート・ケーガン/光文社)

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世の中には“教養として”読んでおかなければならない本があります。
古典はもちろんですが、2003年に発行されたこの本もそんな本の右翼です。

私は最近いろいろなものにこの本が引用されていることを発見して、5年経った今やっと読みました。
ちなみに引用されていたのは、松岡正剛、東浩紀、内田樹、隈研吾といった好きな人たちの本や対談においてでした。
よく引用されているのは以下の2つです。


ナイフしか持っていないものは、森林をうろつく熊を、許容できる危険だと考えるだろう。この危険を許容しないのであれば、ナイフだけを武器に熊と戦うしかないが、この方法の方が、その場に伏せて熊が襲ってこないよう願っているよりも危険が大きいのだから。しかし、同じ人間が銃を持っていれば、許容できる危険についての見方がおそらく変わるだろう。戦うことだってできるの、かみ殺される危険をおかす必要があるだろうか。まったく正常なこの心理が、アメリカとヨーロッパの溝を生み出している。


ヨーロッパは万人に対する万人の戦いというホッブズの世界から抜け出し、カントのいう永遠平和の世界に入っているのだ。


また、Amazonのカスタマーレビューも31件もあって、いかにこの本が多くの人に読まれ、そして一言書き込まずにはいられないような内容だったことがわかります。


150ページ足らずのこの本を読んで、私にもとても大きな発見がありました。

ヨーロッパ、しかもドイツで環境問題の取り組みがもっとも進んでいる理由がなんとなくわかった気がします。
以下、本文を引用しつつ、私の考えをまとめてみました。

1)第二次世界大戦後のヨーロッパは、荒廃した悲惨な世紀の教訓、とくにドイツの「覇権主義的野心」を封じ込めることを最大のテーマとして動いてきた。
2)過去のヨーロッパを意識的に拒否し、権力政治の悪や武力による解決を拒否し、多国籍主義と国際法を重視する姿勢をとっている。その代わり安全保障は多くをアメリカに依存しているという矛盾もある。
3)そのプロセスにおいて、彼らの注目は「脅威」から「課題」に移った。弱さのために解決しえない「脅威」への問題は米国にまかせて、政治的な関与や巨額の資金によって解決できる可能性が高い問題に強い関心を持つようになった。
4)その強い関心のある「課題」の筆頭が、「環境破壊」「地球温暖化」である。
5)EU統合においてヨーロッパで成功した「間接的な方法」を世界全体に広めることが植民地時代のものに代わる新たな「文明化の任務」となったが、その原理によって、「環境問題」に積極的に取り組み、それを世界全体に広めようとしている。
6)とくに自国の「覇権主義的野心」にいまだ恐れを抱いているドイツは、その恐れが反転して「環境問題」解決への強力な推進力になっているのではないかと推測できる。

一つの仮説としては「あると思います!」(by天津木村)


<備忘録>

●ナイフしか持っていないものは、森林をうろつく熊を、許容できる危険だと考えるだろう。この危険を許容しないのであれば、ナイフだけを武器に熊と戦うしかないが、この方法の方が、その場に伏せて熊が襲ってこないよう願っているよりも危険が大きいのだから。しかし、同じ人間が銃を持っていれば、許容できる危険についての見方がおそらく変わるだろう。戦うことだってできるの、かみ殺される危険をおかす必要があるだろうか。まったく正常なこの心理が、アメリカとヨーロッパの溝を生み出している。

●脅威に対応する能力がない場合、脅威を許容するのではなく、脅威を否定することもある。自分では何もできない点については、考えないようにするのが普通だ。

●アメリカでは、「大量破壊兵器の拡散、テロ、『ならず者国家』」などの外国の「脅威」が注目される。ところがヨーロッパでは、「民族紛争、移民、組織犯罪、貧困、環境破壊」などの「課題」が注目される。ヨーロッパは、政治的な関与や巨額の資金によって解決できる可能性が高い問題に、特に関心をもつ。言い換えれば、ヨーロッパは自分たちの強みを活かせる「課題」には注目するが、自分たちの弱さのために解決が難しい「脅威」には注目していない。

●冷戦締結後のヨーロッパは、過去に前例がないほど「無料の安全保障」を教授している。

●世論調査によれば、アメリカの方があらゆる種類の安全保障への脅威への懸念が強く、ヨーロッパの方が地球温暖化への懸念が強くなっており、どちらの世論も世界のなかで自国の役割が違う点を驚くほど正確に認識しているといえる。

●ヨーロッパにとっては、多国籍主義と国際法を大切にするよう主張すれば、現実的な利益を確保できるうえ、ほとんどコストがかからない。

●こうした文化は戦後のヨーロッパの歴史から生まれたものである。過去のヨーロッパを意識的に拒否した結果であり、権力政治の悪を拒否した結果である。

●欧州連合(EU)は、ヨーロッパが戦争で荒廃した悲惨な世紀の教訓から生まれたものなのだ。

●ヨーロッパの統合によって封じ込めようとしているのは、とくにドイツの「覇権主義的野心」である。ドイツをヨーロッパの秩序のなかに統合し、平和的な国にしたことこそが、ヨーロッパの偉大な成果である。

●ヨーロッパの外交政策は、アメリカを多国籍主義に誘導することを主要な目標としている。国連安全保障理事会の決議にしたがってのみ行動するよう、ヨーロッパがアメリカに求めているのはこのためだ。ヨーロッパにとって、国連安全保障理事会は、自分たちに欠けている軍事力に代替するものになっている。

●ヨーロッパは万人に対する万人の戦いというホッブズの世界から抜け出し、カントのいう永遠平和の世界に入っているのだ。

●現状は皮肉に満ちている。ヨーロッパが権力政治を拒否し、国際紛争を解決する手段としての軍事力の役割を軽視しているのは、ヨーロッパにアメリカ軍が駐留を続けている事実があるからなのだ。ヨーロッパがカント流の世界平和を実現できるのは、アメリカが万人に対する万人の戦いというホッブズ流の世界の掟に従って軍事力を行使し、安全を保障しているときだけである。

●外交、交渉、忍耐、経済関係の深化、政治的な包容、制裁ではなく誘導、対決ではなく妥協、小さな手段の積み重ね、問題を一挙に解決しようとする性急さの抑制。ヨーロッパの統合を可能にしたのはこれらの方法である。

●ヨーロッパ統合の奇跡は、少なくともヨーロッパ域内で、軍事力を拒否し、国際紛争を解決する手段として軍事力の役割を拒否したことで達成された。

●EUの「核心」は、「国家間の関係を法の支配に委ねる」ことにつきる。

●ヨーロッパで成功した「間接的な方法」を世界全体に広めることが、植民地時代のものに代わる新たな「文明化の任務」となった。アメリカの軍事力と、必要なら単独でも軍事力を行使しようとする姿勢は、ヨーロッパにとって新たな任務の遂行を妨げる脅威となる。

●フランスはいまだにドイツを信頼していいのか確信をもっていないし、ドイツは自国を信頼していいのか確信をもっていない。こうした恐れによって、統合の深化に向けた動きがときに妨げらかねないが、無数の障害を乗り越えてヨーロッパ統合が進められてきたのも、じつはこの恐れのためである。統合の動きのひとつには、自国に対するドイツ人自身の恐れによって推進されてきた。

●ポストモダンの世界にとっての課題は、二重基準(ダブルスタンダード)に慣れることである。自分たちの間(ヨーロッパ域内)では法律を守る。しかしジャングル(ヨーロッパ域外)で活動する際には昔の荒っぽい方法に戻る必要があり、軍事力、先制攻撃、策略など、ジャングルの掟を使うしかない。

●アメリカは、狭い意味での国益の追求ではなく、同盟国が国内・国外で直面する問題にどこまでうまく対処できたかを基準にする方法を、驚くほどとってきた。

●冷戦後「欧米」の重要性は低下し続けている。ソ連の共産主義と対峙したときとは違って、イスラム原理主義は欧米の自由主義の普遍性を脅かす深刻な脅威にはなりえない。

●アメリカは偉大な国にならなければならない、そしておそらくはもっとも偉大な国にならなければならないと、独立当初から信じてきた。建国の原則と理念が疑問の余地なく優れていたからであり、18世紀から19世紀にかけてのヨーロッパの腐敗した王国のものより優れていたのはもちろん、人類の歴史のなかで登場したどの国、どの政府の理念よりも優れていたからだ。

●ベンジャミン・フランクリンが論じたように、「アメリカの大義は全人類の大義」である。

●経済規模は現在、アメリカとヨーロッパはほぼ同じだが、現在の趨勢が変わらなければ、2050年にはヨーロッパの2倍になるという。若く、活力があり、多彩なアメリカと、高齢化し、活気を失い、内向きになったヨーロッパの格差が鮮明になるだろう。

●アメリカは啓蒙主義を忠実に受け継いでおり、いまでも人間の完全性を信じ、完璧な世界が実現するとの希望を捨てていない。だが、完璧なものにほど遠い世界では軍事力が必要だと信じている点では、現実主義者である。

Posted by simfarm at 2008年09月23日 08:29