『東京育ちの東京論』(伊藤滋著/PHP新書)

『東京育ちの東京論』(伊藤滋著/PHP新書)

51VVYXSQC1L._SS500_.jpg

最近は、毎日2~3冊は何かしらの本を読んでいるので、沢山紹介したい本があって困ります(^-^)。

この本は出版が2002年と都市論とすれば致命的に古いのですが、薀蓄系が抜群に面白い本です。

本論である、

「西の優位、東の隷属」

という構造解析も面白いのですが、特に鉄道の薀蓄話が愉快で、

「東部東上線や西武池袋線は農家が必要とする東京の市街地から汲み取られる糞尿を運んだ。」
「京王線は、当時南多摩の農民が新宿に買い物にくる電車だった。」

なんて話には笑ってしまいました。

山梨県出身の私にとっては、

「山梨や長野からの人間は「飯田橋」を終点として、東京の各地へ流入していった。」

という記述を読んで、会社事務所のある神楽坂(≒飯田橋)にものすごく近しい感じを持つのは、そのせいかもと思い至りました。


<備忘録>

●第二次世界大戦を振り返ったとき、日本は兵卒が、ドイツは下士官が、英国は将校が、戦線においては最も強かったといわれている。

●終戦直後の日本は自給自足でひっそりと生きていく道を模索していた。デンマークのような国家になろうということで、北欧の小国が紹介されたりしていた。

●東北には所有者のはっきりしない山林がたくさんあり、集落が所有していた薪炭林だった。皆がそこから山菜を採り、薪を拾い、材木を伐り出して家を建てたりしてきた、いわば共有スペースだった。農村社会では、それは当たり前のことで、昔から循環型地域コミュニティが形成されていた。今の時代には逆に違和感がなく、むしろ歓迎される森林の利用方法であると考えられる。

●日本列島における東西の仕組みは単なる対立構造ではなく、「西の優位、東の隷属」という関係である。

●関西からの人間は「新橋駅」、東北の人は「上野」、千葉の人は「両国」、そして山梨や長野からの人間は「飯田橋」を終点として、東京の各地へ流入していった。

●東部東上線や西武池袋線は農家が必要とする東京の市街地から汲み取られる糞尿を運んだ。

●京王線は、当時南多摩の農民が新宿に買い物にくる電車だった。

●京葉線、武蔵野線は、もともとは貨物線だった。

●定職に就かないが、文化的な仕事に従事している、金はないけどプライドは高い。そういった人たちに小さい住宅地や借家をたくさんつくって、安い住宅を供給したのが中央線沿線の農地解放後のプチ地主たちだった。

●東海道線には西日本人の持つ主流派の意識がある。

●横須賀線は、主流派の意識に加えて、もともと海軍基地であった横須賀鎮守府へ通じる軍事的にも重要な電車だったのでスピードは抜群に速かった。

●総武線、常磐線、京成電鉄、東武鉄道、どの沿線をとっても、“歴史始まって以来”大学が設立されていない。

●都市計画は強権をもって実行しなければ、後世に残る資産を作れない。

●戦後、日本は金融政策だけで、きちんとした都市計画もなく国民にただ住宅をつくらせ、結果として都市は無残な姿になってしまった。ヨーロッパの都市では、政府主導で建設が行われた。イギリスは地方住宅建設公社を設立し「カウンシル・ハウジング」という集合住宅を供給した。東ヨーロッパでも政府が社会主義住宅(ソーシャル・ハウジング)を作ったが、老朽化で今は大変な問題になっている。

●戦後日本の土地所有で注目すべきことは、大量の小作人や普通の庶民が地主階級になってしまったこと。農地解放で土地を手に入れた小作人は、小商人的知恵で自分の土地を売ったり、そこに貸アパートを建てたりしたため、制御不能に陥った。

●日本経済が成長していく過程でおきた大都市の激しい住宅需要に対応しようとした実態は、結局そのしわ寄せを膨大な零細地主と零細工務店が一手に引き受け、その辻つまを合わせていくということでもあった。

●一般的な都市の中で、建物敷地についての土地利用面積のうち、60%が住宅地で、10%が学校などの文教施設や役所、15%が商業や業務地域で、残りの15%が供給処理施設や倉庫。

●土地には過去の歴史の蓄積と、そこに生きた人たちの情念が染み付いているが、こと埋立地に関しては、そのようなしがらみがない土地といえる。東京は、徳川家康以来、過去のしがらみのない、まっさらな新天地の割合が大きい都市である。

●東京は「村落型巨大都市」 有機体的・複合的な接触関係が市民の社会のなかに成立している都市。

●東京のように巨大化した都市では全体を見つめた「解」はつくれない。全部「部分解」になる。

Posted by simfarm at 2008年09月20日 23:38