『新・都市論TOKYO』(隈研吾・清野由美著/集英社新書)

『新・都市論TOKYO』(隈研吾・清野由美著/集英社新書)

今や建築界の大家の一人である隈研吾氏の最新著書です。

隈氏には、10年くらい前に住宅都市整備公団(現在のUR都市機構)から委託され私が企画・運営した「住宅市場の未来に関するデルファイ調査」プロジェクトで、専門家として参加いただいたことがあります。
このときの専門家メンバーには『下流社会』の三浦展氏もいて、今思うとなかなかすごい顔ぶれでした。

そのプロジェクトでは、氏の思想の広さ・深さ、そして語彙の豊富さに圧倒された記憶がありましたが、この本においてもその才は遺憾なく発揮されておりました。

たった2時間で読めますが、正直面白すぎて終わるのがもったいないくらいでした。

「街並みに対する感受性は教養の中でも一番上位にくるもの」

なんだそうです。

少しでもTOKYOという世界最大の都市や、街並みに興味のある方には絶対におすすめです。


<備忘録>

●1939年にコロンビア大学所有の土地に完成した14のビルからなるニューヨークのロックフェラーセンターが都市再開発の第一号。

●規制型都市開発は、外壁はレンガにすること、といったたぐいの、材料から色まで厳しいルールが適用されている場所もあるし(主にヨーロッパ)、逆に高さや容積率だけを定める緩いルールで規制されている場所もある。

●規制という方法によって魅力的な都市が形成されるには二つの条件が必要である。①その都市の構成要素であるデザイン、素材について選択の余地がないこと。②時間:成熟化が規制型の都市計画をどんどん困難にしている。いったん成熟期に入ってしまった都市の魅力をそこからさらに向上させることは一般的にいって決して容易ではない。

●19世紀の建築において、デザインは「建築様式」(たとえばルネッサンス様式、バロック様式、チューダー様式)によってコントロールされていた。その様式は流行として移り変わってはいくが、一つの時代に建てられた建築は、おおむね一つの様式によってコントロールされている。

●都市化に向けて、日本には二重の困難が課せられた。遅れてきた近代化という歴史的与件(様式の洪水)と、可燃の木造都市を不燃都市に作り変えなければならないという物理的与件の二つである。

●アメリカは「テーマパーク」というフェイクタウンを発明した。ロサンゼルスというもっとも粒子化が進展した都市のすぐ隣に、二十世紀を代表するテーマパーク、ディズニーランドが登場したのは決して偶然ではない。パリという連続的実体が奇跡的に残る場所の隣に計画されたユーロディズニーは、だからこそ失敗せざるをえなかったのだ。

●今や、都市再開発においては、プロジェクトがある規模を超える場合は、例外なくテーマパークの手法が導入される。アメリカ西海岸をベースとするテーマパーク的デザインの巨匠、ジョン・ジャーディが頻繁に起用されるのは、その分かりやすい例である。現実の都市のコピーであったはずのテーマパークを、いつの間にか、現実の都市が逆にコピーし始めているのである。

●プロジェクトが大きくなるほどデザインは陳腐化し、どこかで見たような嘘(フィクション)がただ大きな声で反復されるという、いたたまれないような状況が出現する。

●規制型とはヌケガケ型の別称にほかならない。

●規制型都市計画の欠陥は、都市に対する具体的でポジティブなヴィジョンを描けなかった点にある。それは現代の民主主義システム、行政システムが共有する欠陥でもある。規制はできても、夢を描けないのである。

●現代における都市計画とは結局のところリスクマネージメントである。今や日本のサラリーマン社会そのものが、自分の代わりにリスクを負ってくれる人がもっともありがたがられる社会。日本のゼネコンと代理店のリスク管理能力というのは、もう世界を圧するほど優れている。

●日本人の歴史観の薄さは致命的。アメリカでは、バブルの不動産王ともいわれたあのドナルド・トランプでさえ、トランプタワーの後は、古いビルの改装を手がけて歴史をうまく利用している。

●かつて「欧米」というように一体のもとしてとらえられていたアメリカとヨーロッパが、今は明らかに別々のスタンスを歩み始めている。アメリカは世界を、人々の生存のために闘争を繰り返すホッブズ的自然状態と見立て、一方ヨーロッパはそれをカント的な楽園と想定している。(『ネオコンの論理』(ロバート・ケーガン))

●二十世紀に登場した「郊外」という形式こそ、ヴァーチャルな都市の先駆者である。様々な歴史、時間が染み付いているはずの「土地」の上に、その場所とは無関係は「夢」を強引に構築する方法で作られた街が「郊外」と呼ばれたのである。

●「ユートピア(=夢)」そのものは二十世紀の発明ではないが、「夢」を鉄道という「線」によって束ね、つなぐ技を発見したしたのは二十世紀ならではの発明だ。地図の上に新たに描かれた鉄道という「線」に沿って一つの「夢物語」を構築し、そのストーリーに添って一つ一つ「夢」を配置していく。「夢」は単独ではみじめな妄想にすぎないが、束ねられ、つなげられることによって、妄想から現実らしきものへと進化する。私鉄沿線の「郊外」とは、そのようにして出現した現実らしき場所のことである。

●バロック性とは、小さな個人に、巨大な世界へと接続しえたという認識(錯覚)を与えるもののことである。バロック建築は、小さくて寂しい個人に、そのような一瞬の興奮を与えるために仕組まれた、巧妙な空間装置のことだ。そして、バロック的都市計画とは、その装置を都市スケールに拡大したもののことである。その頂点が、十九世紀半ば、ナポレオン三世の指導の下に実行されたパリ大改造である。

●バロックの原理は斜交性にある、としばしば指摘される。

●都市とは、そもそも相反し、矛盾するものが出会う場所だ。単一原理によって埋め尽くされた「村」と、都市との差異はそこにある。

●風俗店と老舗があるというのは、都市の条件。

●都市は失敗の集積にほかならないし、失敗を重ねた都市ほど偉大な都市ということができる。

●二十一世紀の都市というのは「金融資本」と「実態」の両方が作っているものですが、金融資本の肥大化が進んだ二十一世紀東京では、でき上がった都市が日本人の堅実なリアリティ感覚とかけ離れてしまった。

●街並みに対する感受性は教養の中でも一番上位にくるもの。

●二十一世紀の東京の眺めが映すものはグローバリズムという顔の見えない投資システム。投資はリターンを目論む。リターンを得るためになによりも優先されるのは「リスク管理」の手法だ。しかし、最も有効なリスク管理が歴史の継続性とクリエイティビティにほかならないことを根本のところで見逃しているのではないか。

Posted by simfarm at 2008年09月13日 20:52